加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
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少し古い本だけど、非常に面白い論説だった。
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加速主義というのは、高度なテクノロジーと人間との関係性がすでに前提となった新しい歴史的状況のなかから生まれてきたマルクス主義的かつ反動主義的な言説 加速主義というのが旧来的な左派に対して、ロックミュージックにおける「パンク」のような出方をしていると思いました。つまりアグレッシブで、否定的なエネルギーを放出していて、それでいてちょっと広告代理店の匂い
素朴政治は大事なキーワードだと思います。つまり、左派から出てきた自己批判的なムーブメントとして加速主義を捉えられるということです。素朴政治はドゥルーズ+ガダリがむかし「第三世界主義」と呼んでいたようなもので、今であればヨガやマインドフルネス、ローカルで地味なアクティビズム、もしくはヌルい感じの関係性のアートといったものを加速主義は真正面からターゲット 九〇年代的な音楽カルチャーには技術的なレベルでも、サンプリングとか、今まであったものを壊して再構築していくという意味で、ある種の脱領土化のプロセスがあった
加速にはスピードの方向性、つまりベクトルがともなわない限り、記号のレペティション(繰り返し) という円環に陥りがちです。パスティーシュ的な記号のアップサイクリング以外に未来の文化が見いだせない。あるいはこうした文化的想像力を、過去に向かって「前進」し、失われた未来へと永却「回帰」しようとする憑在的な美学 このあたりの勉強しないとしなければならない
基本的に加速主義は、ドゥルーズ=ガタリ的な表現では脱領土化、脱コード化を押し進めるということです。ドゥルーズ+ガダリによれば資本主義はこれまでの共同体を破壊して脱領土化を進めていくものであり、そこで今までの自分の主体性が結びついていたような領土あるいはコードが破壊されたときに、人は再領土化をしたくなります。それが反動的だということ 基本的にグローバル資本主義は全面的な流動化に向かっていますが、それでも人間がどうしても必要としてしまう“かろうじての領土性”のようなものを、互いを排除するような形ではなく、何かいい形で成り立たせることはできないのかということが今日の思想の大きな課題だろう
テクノロジーと主体化についての話です。要するにテクノロジーとの融合が、そのまま脱主体化をもたらすという、マーシャル・マクルーハンやフリードリヒ・キットラーなどの昔のメディア論がよく主張してきたような考え方がまだ基盤になっていると思うのですが、それはあまり経験に基づいていない、ただ現代思想をメディア論とくっつけただけの空論でしかないのに、それを妄信している人たちが今もいる すべてが計算できるようになった中での、主体的な意味
テクノロジーによるある意味での脱主体化、テクノロジーによる生活の脱意味化とでも言うのでしょうか ―― つまり、すべてがお金の量の計算、クオンティティ(量) の問題になっていく一方で、人間はそれでも主体的な意味にしがみついてしまう。こういった状況の二重性があります。つまり、人間がより無機的な数の次元に還元されていくと同時に、ある意味きわめて純粋に主体化の次元が抽出されてくる。それが加速主義と新反動主義が双子であるということの一つの意味なのではないか 再領土化ということに関して言うと、エスノフューチャリズムというものが今いろいろなところで言われるようになりましたよね。「エスノフューチャリズムとは何か」が定義できないほどにさまざまな文脈から生まれてきているので、それぞれの固有性を見ながら語らないといけないことだとは思いますが、それをふまえたうえで敢えて暴力的にまとめてしまえば、なぜ再領土化のなかでもとりわけ「民族」をめぐる作話が注目されるのかという疑問 民族のなかに再領土化のための作話を求めていくとナショナリズムに陥りかねません。例えば(ユク・) ホイさんはどのようにナショナリズムに陥ることなく新しい歴史性や新しい時間性を開示しようとしたのか。そのなかに新反動主義を再評価する、とくに新反動主義的な未来主義を再評価するための鍵 エスノフューチャリズムというのは、そういう意味での単線的な加速主義に対する抵抗、あるいは時間線の複数化として捉えられるのだと思います。そのときにキーになるのは、恐らく単線的な加速主義のなかでは、主体化を起こすための場のようなものがすべて解体されてしまうということです。それに対して、それぞれの主体化のための特殊な場や空間性というものをエスノフューチャリズムは確保しようとする。
資本主義の
右派と言われる加速主義も左派と言われる加速主義も、資本主義の経済システムがこれから終わるだろうという歴史目的論を土台にしているところがあります。その共通理解の上で、資本主義は時代錯誤だから早く技術シンギュラリティに行こうだとか、もしくは共産主義的な民主主義に行こうだとか、話が枝分かれしていきます。その人が描いている未来像によって加速のベクトルが変わる 一つの大きな違いとして目につくのはスピードに関する考え方です。ニック・ランドや右派加速主義はただスピードと強度を追求し、最終的には技術文明がシンギュラリティに回収されて終わります。それに対し、左派加速主義はスピードにベクトルがないといけないと考えるのが特徴的なのではないかと思います。その点が必然的に、ではレニニズムや計画経済でいいのかといった問題とつながってくるのですが、少なくとも左派の加速主義は、人間が技術と共存するようなポスト資本主義を思い描いている ベクトルを与える」というのは重要なキーワードだと思います。左派加速主義者らは「ナビゲーション」(navigation) という言葉をよく使います。これは航海術や操縦法を意味する単語なわけですが、ノーバート・ウィーナーが造語したサイバネティクスもそもそもギリシア語のキュベルネーテース(゠操舵術) から来ています。海のような何の目印もない、目的地もないような平滑空間のなかでいかにして自己の運動を制御し生を展開するかという、一つの原イメージから彼らの思考が始まっているのではないか サイバネティクスは資本主義と軍産複合体の歴史のなかから生まれてきた一つの統治技術として批評されている部分がありますが、それと同時に、中央集権型の権力を破壊するようなポテンシャルとしても注目され
サイバネティクスと呼ばれる理論的・技術的知の総体に関してはまさにそのような姿勢を示しています。しかし、さらに、この「操縦」という概念には、どこかで啓蒙主義的な意味での人間の理性による「操縦」と重なる部分もあると思います。つまり、ただの技術官僚主義的なファシズムにならないためにどうすればいいかという問題意識がそこにはある 加速主義に啓蒙思想から引き継いだものがあるのではないかというのは、まったく僕も同意するところです。例えば加速主義者たちの重要な理論的参照先となっているレイ・ブラシエはその主著 Nihil Unbound のなかで、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』をはじめとする彼が啓蒙の系譜に属すると判断した思想家たちの著作を批判的に論じ 加速主義というのは ―― 新反動主義もそうですが ―― 結局私たちは未来をどうしたいのかという問いを私たち自身に絶えず突きつけてくるところがある。それが、彼らが素朴政治と呼ぶような旧来の左派に対しては挑発的な問いとして機能したということなのだと思います。また啓蒙の理念や進歩の概念の再評価という文脈が加速主義のなかにあるということは、同時に、人間的諸価値自体も再考されなければならないということを含意している ドゥルーズ=ガタリによれば、資本主義は常にその暴走を抑えるための公理系とペアで働きますが、まさにその近代的な人間の理念に基づくところの、弱者を救済したり、富を再配分したりといったレギュレーターが、公理系として資本主義のなかで作動しています。ですから今日、近代の人間的諸価値をもう一度問い直すという動きは、資本主義の公理系を外す動きとしても解釈できることになります ニック・ランドや加速主義者たちが現在のリベラル民主主義を支えている公理系を破壊せよと言ったとして、それはおそらく単に公理の数を減らすということだけではなくて、新しい公理を付け足す、まったく今までなかったような、これまでの人間的価値や人間の形象からすると想定できなかったような公理を新たに付け加えていくという運動も含意している 結局ニック・ランドやフィッシャーも含め、キッシンジャーが言った「啓蒙の終わりの後」でも、あるいは「メルトダウン以降」でも「ポストアポカリプス」でもいいのですが、どういう言葉で形容しようともみんなとにかく未来への「出口」を探しているわけですよね。すると、左派的な加速主義がもしそのスピードにベクトルをつけるとしたら、その出口の先にポストヒューマン的な人間を見るのか、そうでないとすれば、代わりにどういう人間像を提示することができるのか 右派的な加速主義はベタな意味での技術進歩主義で、技術がなんとかしてくれる、そうでなければ人間がただの wetware として技術シンギュラリティのなかに吸い込まれればいいという、ある種の終末論として展開されています。しかしそれとは異なり、左派的な加速主義は、進歩だけではなくヒューマニズムの再評価・再構築をどこかでしようとしています
これから目指すべきは、普遍主義ではない時間軸や、普遍主義ではない人間性です。かつてあった啓蒙思想のエピステーメーに戻ることはもうできない。同じように、二〇世紀中盤の社会民主主義のような体制に針を戻すことも不可能だから、今こういった議論がなされていると思います。加速主義の原理とは、「先に行かなければいけない」というものでしょう。後ろ向きではなく、前向きに資本主義と対決するというのが加速主義です ベクトルのない加速はただの円環に戻るというループについてもまた考えなければいけないと思います。 仲山 それはまさに、シェリング的な「神話」に加速主義者がかなり注目していることともつながる部分なのではないか
団結することがオルタナティブに対するオルタナティヴである以上、これまで以上に完璧な団結に対するオルタナティヴなど存在しない。かつてオルタナティヴなものが見い出された地点を探索し、自由が未だ出口を意味した地点を、そして弁証法を空間の中で解消する地点を探索した末に、保守主義が今やようやく辿り着いたのは、 大聖堂 の影として、あるいはそのなくてはならないパートナーとして作り出された、 おぞましい化け物小屋のような場所 だったわけだ 民衆というものは、自分たちの非同質性に「ひどく執着し」[二〇〇八年の大統領選のさいの演説の中で述べられた、〈田舎の人間たちは、構造的な貧困から銃や宗教に「ひどく」「執着している」〉という由のオバマの発言を示唆する表現] ―― あるいは少なくともそれを手放さず ――、啓蒙に基づいた人口管理の普遍的なカテゴリーに対して頑なに抵抗しつつ、その共通点よりもその差異によってより興奮し、より生気を与えられるものなのだ、というものだ。
歴史や社会の土台をなす勢力は、 貧乏白人 化されたリバタリアニズム
民主主義は自由とは相容れないものであり、民主主義的なプロセスには、自由を増すのではなくそれを減少させる傾向が、ほとんどその生来の性質といえるものとして備わっているのであって、ゆえに民主主義とは、修復すべき何かなどではないのだ。社会主義と同じように、民主主義はそもそも不完全なものなのである。民主主義を修復するには、それを解体してしまうしかない。 ―― フランク・カーステン
近代とは統合的な傾向によって定義される社会状況のことであり、人口増加を上回るような持続する経済成長率、つまり、マルサスの罠の中に捕らえたままの、それまで通りの歴史からの逃走を示すような、そうした持続する経済成長率をもつものとして要約できる社会状況
近代はどこからかやってきて、広範な場所に対して自らを押しつけ、世界中の様々な人々を、異常ともいえるほどの広がりをもった新たな関係の中へと連れ出していった。資本の蓄積を可能にし、新たな人口トレンドを導くことで、かつてのマルサス的限界から溢れでた部分を巻き込みつつ、抽象的な経済的機能とではなく、具体的な集団と結合していた限りで、そうした関係は典型的に「 近代的」なものだった。したがって、少なくとも表面的に見る限り、近代とは、ある種の人々が、彼らとは全く似ていない者たちと共に、そして専らそうした者たちに対して(あるいはそうした者たちに抗してさえ) 行った何かだったわけ 代議制民主主義を、憲法に基づいた共和主義(あるいはより極端に( 36) 反政治的な統治機構) と交替すること。 (二)政府の規模を大幅に縮小すること、(最低でも( 37)) 中核をなしている機能へとそれを厳密に制限すること。 (三)硬貨(稀少性の高いメタルコインや金塊預金証書) の再興と、中央銀行制度の廃止。 (四)国家が通貨や財政に関して保有している決定権を剥奪すること。いいかえれば、実務に関わるマクロ経済学を廃止し、自律的な(あるいは「 市場秩序に従った」) 経済を自由化する 民主主義はそもそも、政府の権力を制限することを目的とした、防衛的な手続きをもったメカニズムとして始まったものであるはずだが、しかしそれはすぐさま、そして容赦なく、全く別のものへと、すなわち体系化された窃盗を推奨する文化へと変わっていく。政治家たちが「国庫」から政治的な支援を買いとる方法を学び、有権者たちが横領や賄賂を受け入れるような条件を整えてしまうと、民主主義的なプロセスは、(マンサー・オルソン[Mancur Olson、経済学者]のいう)「分配結託」 ―― 自らが属す集団に対して有利な窃盗のパターンの中で、共通の利益によって互いに癒着した有権者の多数派たち ―― を形成するためのものへと変質してしまう 近代1・0の最終局面の中で、アメリカの歴史はそのまま、この世界のマスター・ナラティヴと化す。 大聖堂 が流布させる世俗化した新たなピューリタニズムの中で今や、偉大なるアブラハムの文化の伝達はその絶頂を迎え、 大聖堂 は、ワシントンDCの中に新たなエルサレムを生み出すことになる。メシア主義的かつ革命的な目的をもった装置が、平等や人権や社会正義、そして ―― なによりも ―― 民主主義 の名の元に、普遍的な友愛という新たな世界秩序を制定するために必要となるありとあらゆる手段によって正当化された
基本的な主題は、西洋社会を支配するものであり、モールドバグが 大聖堂 と呼んだ、現代のメディアとアカデミズムの複合体によって行われているマインド・コントロールであり、思考の抑圧である。だが物事が押し潰される場合でも、押し潰されたものが完全に消えてなくなるわけではない。そうではなくそれは、場所を移され、その身を隠すための 陰 の中に避難して、そして時により、怪物へと姿を変えることもある。 大聖堂 の抑圧的な教義が、様々な形で、また様々な意味において力を失いつつあるこんにち、怪物たちの時間が迫ってきている 啓蒙という歴史的プロセスがもつ不可逆性である。ひとたびそれがはじまると、啓蒙はその前後を、つまり進歩(゠啓蒙゠左派)と保守(゠反動゠右派)というふたつの立場を生みだす。だが理性の光がもつ「自明」な正しさによって、保守の立場はあらかじめ不利な、というよりもそもそも「矛盾した」状況に置かれることになる。近代的な二項対立にあって保守の立場は、「基本的にFワードが意味するもの」でしかないのだとランドはいう。だがにもかかわらず、「何かが起きている」。 その「何か」こそ「新反動主義 Neoreactionary」 徹底して「形式化」することを推奨する。国家は有能な君主゠企業主によって合理的に経営されるべきであり、そして住民はその「顧客」となるべきで、良き統治とは良き経営 暗黒啓蒙」とは、カント的な啓蒙に内包されていた合理主義を徹底し、経済的自由の障壁となるものを取りはらって資本の流れを加速させ、人間という種の改良もいとわず、近代的な価値観からすれば世界の〈外部〉にあり、それゆえに禁忌とされるような「ダーク」な領域へと向かうことを唱導する、 新たな啓蒙の綱領 なのだといえる。「啓蒙とは、人間がその未成年状態から抜け出ること」(カント)だとすれば、その成年状態からも脱して、人間はいまや怪物になるべきだというわけ 「事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっている」「 再帰的無能感」
加速主義という語そのものは、〈資本主義を徹底的に推し進めることのみが、資本主義からの出口に通じる〉という「ポスト六八年」の理論的立場を批判的に名指すために案出されたものである( 5)。とりわけ、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』(一九七二年) のなかでマルクスを再活性化するためにニーチェを引きつつ記した「過程を加速すること」という一節は、九〇年代以降に噴流し、のちに分岐・流行・偏流していくことになる ドゥルーズ=ガタリが力説していたように、資本主義は本来、「流れの脱コード化または脱領土化と、流れの暴力的かつ人工的再領土化という二重の運動」にもとづくものであるため、前者の解放的な潜勢力が後者の「再領土化」によって絶えず阻まれことになるという面を無視することはできない( 7)。このようにドゥルーズとガタリが資本主義の反動的な側面をつねに視野に入れていたにもかかわらず、先に引いた『アンチ・オイディプス』の一節に含まれている資本主義の「脱領土化の運動」は、九〇年代に入ってからランドによって当初の文脈から遊離したかたちで、一面的かつ極端な解釈を施されて、奪用されるようになる。ランドはその一連の扇情的なエッセイを通じて、資本主義が行使する絶対的な脱領土化の破壊力を解放のための力にほかならないものとして讃美し、歓迎した (民主主義国家を解体して、君主のように全権を掌握した[白人男性]CEO率いる企業が小都市国家群を支配するといった新封建主義的な未来社会像を思い描く、反動的な思想運動) との関係を強めている
ランドらは、「今日の西洋社会を支配しているメディアと学の複合体」を「大聖堂」に見立て、強く批判する。というのも、彼らによるとそこには、PC(政治的公正を意味する「ポリティカル・コレクトネス」の略称) 等の倫理と教義が奉られており、それらは西洋文明に有害な脅威をもたらすからである。その上で彼らは、大聖堂に対する破壊活動として暗黒啓蒙を仕掛けるのだが、つまるところそれは、ラディカルな変化をもたらして現在の窮状から「西洋」を救い出すためには、技術的・商業的な「脱政治化」(つまり、政治による経済やテクノロジーに対する制約を解除すること) がぜひとも必要であるという、技術革新と生産性向上への欲求に裏打ちされたものとみなしうる 資本主義リアリズムと「ブルジョワ゠リベラル」「左翼」に共通する特徴として、過度な道徳主義・個人主義・プライヴェート化を指摘し、それらを「階級」の否認と直結させて指弾している。すなわちフィッシャーは ―― リベラル左派の「学者や衒学者」たちから激しい反発やバッシングを受けることになるのを承知の上で ―― こう主張 資本の超克を求める代わりに、資本がつねに妨害してきた能力、別の言い方をすれば、生産すること・ケアすること・享楽することの集合的能力に焦点を合わせなければならない」 ニック・ランドの軌跡を追いながら、新自由主義が ―― 新反動主義を介して ―― 新封建主義へと再編されていく未来を察知するとともに、もう一方でマーク・フィッシャーの軌跡を追いながら、新自由主義によって鎮圧されてきた潜勢力が ―― アシッド共産主義を介して ―― 現勢化されていく未来を触知 フィッシャーが資本主義リアリズムの特徴として強調した〈再帰的無能感〉は、いまやコミュニケーション資本主義における「欲動の再帰的回路」( 24) 内を循環する〈アルゴリズム的享楽〉と重なり合い、一体化しつつある コミュニケーション資本主義の複合的ネットワークには、ヒエラルキー化と独占化、端的にいえば、 寡頭的支配による新封建主義へと向かう傾向が本来備わっているわけである。してみれば、シリコンバレー発の新反動主義がテクノ権威主義的な新封建主義を志向するのも、ある種、当然の帰結である ディーンはそうした編成のことを「コミュニケーション資本主義」と呼ぶ( 23)。対人ケアのような情動労働というかたちであれ、 共有 と表現の動員というかたちであれ、遍在するメディア回路やグローバルなコミュニケーション・ネットワークへのさまざまな寄与 ―― それらを通じてユーザーからますます多くのデータとメタデータが提供されることになり、またそうして得られたデータをメディア回路は保存・蓄積し、採掘し、販売することになる ―― というかたちであれ、いずれの場合にも、コミュニケーションが資本に奉仕している コミュニケーション資本主義の時代は、強いられた個人性の時代である。つまりそこでは、「個人的なことは政治的なこと」という支配的な権力構造を擾乱するための問題提起が、「政治的なことは個人的なこと」ないしは「個人的なことのみが政治的なこと」という、個人主義を基盤にしたアイデンティティ政治へと反転されてしまう コミュニケーション資本主義とは、参加と包摂という従来の民主主義的理念が、流通・凝集・略奪・蓄積のプロセスからなる資本主義のダイナミクスと合体しつつ、その動態を加速するシステムのことであり、①〈 発話の使用価値から交換価値への移行〉(ネット上を循環する発話の価値が、その意味内容よりも、情動を喚起する度合いや、閲覧者数・検索ヒット数等によって計られるという事実に見られるように)、②〈象徴的(象徴界の) 効力の衰退〉(共通の意味作用の欠如や、議論のさいに参照されるべき共有の理解の喪失に見られるように)、③〈不平等の増幅と拡大〉(Twitter のフォロワー数の違い等々が顕著に示すように、複合的ネットワークの上位項と下位項のあいだにはリンク数の巨大な格差が存在するけれども、下位項間にはほとんどその差がないという、べき乗則に従った分布を生み出す「ネットワーク効果」に見られるように) の三つをその 資本主義に代わるオルタナティブな社会を想像することすらできない現在の閉塞した社会状況を資本主義リアリズムと呼んだ。マーク・フィッシャーが資本主義リアリズムの例として挙げているのがメンタルヘルス問題の蔓延である。たとえば鬱病などは個人の脳気質的な問題に還元されてしまい、周囲の労働環境や社会構造は考慮されない。そこでの精神の病はどこまでも個人の問題、つまり「自己責任」という新自由主義的な倫理に回収されてしまい、それが翻ってメランコリーをさらに深刻化させる。こうした資本主義リアリズムが支配化した社会に見られるストレスと無力感 ポストモダンに蔓延するニヒリズムと悲観主義を乗り越えて、この「退屈なディストピア(boring dystopia)」を打破するオルタナティブな地平を切り拓くこと。悲観主義ではなく楽観主義を、ディストピアではなくユートピア 不断の競争とコミュニケーションが推進される社会において前景化してくるのがメンタルヘルス
資本主義は、次のような歴史的運動を経て表象となる ―― すなわち、交換価値は自律し、人間存在は収奪され、人間活動は労働へ、労働は抽象労働へと還元される[…]。資本は、人間存在をそのプロセスの関数として再構築する……。[以上のようにして] あらゆる人間の活動が、資本を「永遠のものとする」
資本主義の生産様式から生じる、三つのありうべき結果を予測する。 [1]資本の完全なる自律化 ―― すなわち機械的ユートピアという結果であり、そこで人間は引きつづき遂行的な役割を与えられると同時に、自動化されたシステムのたんなる装飾品となる。 [2]人間の変異、あるいは種の変容 ―― すなわち完璧にプログラム化可能な存在者の生産という結果であり、そこではホモ・サピエンスという種の特徴のすべてが失われる[カマットの説明によれば、この特徴とは、たんなる労働者ではなく「創造主、生産者、使用者」の能力のことである]。 [3]全般化した狂気 ―― この結果においては、人間の代わりに、そして彼らの現下の制約を土台に、資本がすべてのものを(通常のものであれ異常なものであれ) 望むままに実現 すなわち資本が労働を再生産し、労働が資本を再生産するという関係を破壊することに核心を有するような、ある内在的な運動として構想しなおされねばならない マルクスの出発点は、資本主義が 起こった と認めることだった。それを前提としたうえで、彼が発する根本的な問いとは次のようなものであった ―― われわれは、前資本主義的な社会形態、たとえば農業的封建制に立ち返ることなしに、いかにして資本主義の彼方へと向かうことができるのだろう プロメテウス主義〉とは「われわれが何を成しうるか、あるいは、どのような仕方でわれわれが自分自身やわれわれの世界を変えうるのか、ということについて、前もって定められた限界を想定する何の理由もない」( 4) という主張である。これはブラシエ版〈加速主義〉の表明と見なしうる
初期ランドの〈加速主義〉の出発点はドゥルーズ=ガタリドゥルーズとガタリの〈脱領土化〉の思想であると言われている。ランドがそれを徹底し、純化しようとするのに対して、グラントはドゥルーズそのものへと向かう。しかしそれはドゥルーズを乗りこえるためにである。『シェリング以後の自然哲学』においてグラントが行っているのは、ドゥルーズ哲学の源泉の一つであるシェリングの自然哲学に遡り、それによってドゥルーズとそのカント主義の残滓を除き去ろうとする試み 既存の制度や伝統などを解体していく資本主義の脱コード化の運動を、ランドは留保なしに徹底し、加速させることで、現在の世界を生きる私たちにとってはまったくの未知であるような未来を招来しようとするのである。このようなランドの思想は、資本主義下の現代の生の閉塞を打開してくれるかもしれないもの ランドによれば、近代性を特徴づけるのは、「生産」と「批判」であるという。ここで言う生産は資本主義におけるそれ、批判はカント的な意味におけるそれであるが、ランドは後者について、その「超越論的な動力」を強調している。両者に共通するのは、それらが 本質的に停止することができない という点 ドゥルーズ゠ガタリの哲学の本領は、先に見たとおり超越論的企図を徹底することにあり、その政治的な形態は、既存の制度や伝統などを解体していく資本主義の脱コード化の運動を、無慈悲に、無責任に、推進する
器官なき身体とは、理性によって成し遂げられるものではないひとつの抽象である。それは、一次的生産の超越論的な砂漠、あるいは最大の無差別の連続体としての生産の再生産である。〔…〕 不毛性と腐食作用は、実体を侵害することなく変調し、特定の何かを優先することなくみずからの冷たい並び換えを実行する。その経験的な形状がいかなるものであれ、つねに再び生産それ自体がある、 疲労とは、世界が「可能的なもの」を持たず ―― あるいはそれを実現することができず ―― ただひたすら「現にこうである」ことに還元される事態であり、またそれを指す概念である このような生の様態を打ち破るには、私ならざる〈他者〉が、その表情や振舞いをとおして、疲労 ではない 世界を表現することで、意識とその対象を分離する否定作用、無化作用をもたらさなければならない。〈他者〉はそれゆえ、 可能な外的世界 を表現するもの、つまり「可能世界の表現」(LAT 254/324) と定義される。
ドゥルーズの哲学には、このように、生の閉塞とその不可避性にさいなまれつつ、それらを打破する可能的なものを希求するという側面があり
ドゥルーズは、先に確認した可能的なものの希求を言い表すものとして、繰り返し ―― その都度、微妙に文言が異なるのだが ―― **「可能的なものを、さもなくば私は窒息してしまう」**というフレーズを用い、これをキルケゴールに帰しているのだが、『意味の論理学』(一九六九年) では、このフレーズは、ウイリアム・ジェイムズの「可能性の酸素」というフレーズとともに、明確に批判対象として引き合い 世界における耐えがたい何か」(IT 221/237) が問題とされる。 耐えがたいものとは、もはや重大な不正ではなく、日常的平凡さの永続的状態である。人間は、 それ自身が、人間がそのなかで耐えがたいものを感じ、身動きが取れないと感じる 要するに、「人間は、 それ自身が、人間がそのなかで耐えがたいものを感じ、身動きが取れないと感じるような世界そのもの である」ということである。これは明らかに、ドゥルーズにおける生の閉塞を定義する「疲労」と重なるもののように思われる。すると、「事物の状態」と「耐えがたいもの」は、同じことを指す ドゥルーズは、ここで再度、パスカルとキルケゴールの「選択」の哲学に触れ、その本質が、選択されるべき諸項にではなく、選択する者の実存の様態にあると確認した
宗教的実存だけが、あらゆる一般性に対する従属からみずからを解放し、みずからを一般性の上位に置く、つまり「絶対者との絶対的関係に立つ」。キルケゴールによれば、これこそが「信仰」(fois) の定義である( 20)。感性も、理性も、倫理も、義務も度外視した 可能性があれば、そのとき絶望する者は、呼吸を取り戻し、甦ることができる」
可能性を欠くということは、あなたにとって、すべてが必然的なものになってしまったか、あるいは、すべてが陳腐なものになってしまったかということである
可能性がないということは、すべてが必然的になり、陳腐になるということであり、それはドゥルーズが「耐えがたいもの」と呼ぶものと合致する。絶望する者とは、すべてが必然である者 キルケゴールが言うように、 破滅が避けられない ということは、可能性を信じる者もよく理解している。「人間的には自分の破滅がすぐそこにあることを理解しながら、 それでも 可能性を信じること、これこそが信じることである」( 23)。死に至る病としての消尽において、もはや避けられなくなった破滅に対して、「それでも」という逆接によって、消尽しないものを、死の向こう側を、希求すること。そうすることを選択すること。これが、ドゥルーズがパスカルとキルケゴールとともに練り上げる「選択」の哲学であり、生の閉塞とその打破をめぐる「宗教的転回」 資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、それを中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速する 加速主義は、資本主義の開放的力学の側につく。それは、封建主義の鉄鎖を壊し、モダニティに特有の、絶えず分岐する実践的可能性の広がりへと導いた。多くの加速主義思想の焦点とは、そのような資本主義の変形的な力と、交換価値、資本蓄積という公理系とのあいだの本質的と思しきつながりをテストすること
ヘゲモニーを握るネオリベラリズムは、オルタナティブはないと主張し、既定の左派政治思想は、啓蒙という「大きな物語」にとりこまれないよう気を配り、資本に汚染された技術インフラストラクチャーとのいかなるつながりにも用心し、文明の遺産全体にアレルギーを起こしている。左翼はこの遺産全体を「道具的思考」としてひとまとめにして処分し、明らかに自らが可能でなければならないと主張するオルタナティブを提供し損なっている。彼らが提供できるオルタナティブはただ、反実仮想史や、脱中央集権化し、グローバルに統合されたシステムに対するあまりにもローカルな介入といった形のものだけ 解放の力を資本主義の外部に見るのではなく、資本主義の深く内にある核に見ていた( 4)。例えばリオタールは『リビドー経済』のなかで、資本の「周辺」ではなく、「資本の諸記号のうち」にこそ諸々の潜在力が存在しているのであり、「フェティシズムは諸強度を生む機会になるのではないか。フェティシズムは、創意の、リビドー的な帯への追加の、とても起こりそうもない偶発事の、見事な力を証言していないであろうか イギリスのプロレタリアは生存のために仕方がなく労働者になったのではなく、彼らはあくまで仕事場での労苦を享受し、故郷の伝統がつくり上げていた自らのアイデンティティの崩壊を享受し、「郊外と朝晩のパブとの新しい怪物じみた匿名性」を享受していたとまで主張する
ニック・ランドランドは、フランス現代思想と当時のサイバーカルチャーとを交差させながら、社会とテクノロジーの対立自体を無効化した。言い換えれば、この対立を曖昧にし、「社会的諸関係」の問題を不問にすることで、ランドは資本主義とテクノロジーを同一視した 資本主義とはネットワークではない。この認識こそが九〇年代加速主義と現代の左派加速主義の分岐点である。ランドが資本主義のコミュニケーション的側面を過度に強調したのに対して、フィッシャーは流動化した社会でも確実に作動している資本のアルカイックな支配に目をむける。ここではあたかも資本主義はテクノロジーと手を携えて進むどころか、テクノロジーの進歩と対立しているかのよう 資本は機械の導入によって労働者の自由時間を創造しながらも、絶えずそれを剰余労働に転化 自動化の導入によって、「労働者は低下する賃金と増大する貧困化に直面する」( 17) という事態も引き起こしてしまうだろう。 しかし、にもかかわらず、スルニチェク/ウィリアムズウィリアムズは自動化の波をゆるめよとは主張しない。むしろ彼らは、「完全なる自動化は、それがすでに進められているかどうかにかかわらず、達成されうるものであるし、達成すべきものである」( 18) と主張する。 一つ目は、テクノロジーへの投資よりも労働力の賃金の方が安いため、自動化への低いインセンティヴしか企業がもたないということだ。そして、二つ目は、テクノロジーの導入が実際の仕事に適用され、その効果が現れるまでには、タイムラグがあるということである。この二つは、企業あるいは資本主義システムの至上命題が利潤の最大化にある以上、それらが完全な自動化を進めるということは、決して必然的な成り行きではない 普遍的な基本所得(ユニバーサル・ベーシックインカム:以下UBIと略記する) の導入である。これまでの二つの要求は、「完全なる自動化を通じた労働の削減、そして労働時間の短縮化を通じての労働力の供給の削減」( 32) を求めるものであり、それが成功したあかつきには、「経済的な成果の減少や失業者の深刻な増大をもたらすことなく、顕著な量の自由時間を解放できるということになるであろ 総合的自由」を達成するために、「あらゆる市民に、生きていくのに必要な量の資金を、いかなる審査もすることなく、給付するもの」( 35) としての、UBIの導入が要求される
UBIは、労働と資本との間に存在する権力の非対称性を、転覆する可能性をもたらしてくれるものだという。「プロレタリアートは、生産手段および生活手段から自分たちが切り離されているということに規定されている。それゆえ、プロレタリアートは自分自身を労働市場において売りに出すことを余儀なくされ、それによって生存するのに必要な収入を得ている」( 43) という現状に対し、UBIの導入は、「仕事に頼ることなく生活の糧を得ることのできる手段を、プロレタリアートに与えてくれ」( 44) ることを通じて、就労するか否かの選択肢を労働者が持つことを可能にしてくれるのである。この結果、「労働を本当の意味で自発的なものとみなす」( 45) ことが可能となり、首を切られるかもしれないという恐怖に怯えることなく、「労働者は優位に立ち、資本はその政治的な力を失うことになるだろう」 つまり、「仕事の本質がそれがいかに利益を産むかではなく、その価値がどのようなものか、ということで測られることになるだろう」( 51) ということだ。この結果、最も劣悪な仕事の賃金が上昇するとともに、そのような仕事の自動化が進むという「ポジティヴなフィードバックのループを形成する」( 52) ことになる。これにより、多くの不払いのケア労働の価値もまた、再考されることになるとともに、どのような仕事をこなすことができるかという「能力に応じた報酬ではなく、基本的なニーズに応じた報酬という形へシフトすることを」( 53) UBIは促してくれることになるだろう。ここでは、「人の価値をその人の能力で測るようなケチな尺度」( 54) を拒絶し、その代わりに「人々は端的に人々であるということによって、価値あるものとされる」 ポスト労働世界」は、次のように要約できるであろう。すなわち、UBIによって日々の生活の物質的基盤は賄われ、必要な生産は自動化されているため、労働はそもそも必要ない世界。そして、テクノロジーによって代替不可能なもののみが労働の対象となり、労働したとしてもそれは短時間ですみ、しかも労働せよという倫理的要請は存在しない世界。それは、「労働なき世界」であり、「完全なる失業」の世界である。スルニチェク/ウィリアムズは、次のように断言する。「ここで抱くべき野望は、資本主義から未来を取り戻し、我々が欲する二一世紀の世界を我々自身によって打ち立てることを目標にする、ということだ。自由を意味のある概念とするためにとりわけ重要なことは、時間と金銭が与えられねばならないということだ。左派の伝統的な要求である完全雇用は、それゆえ、完全失業の要求へと取って代わられねばならない」 ハイパースティション(Hyperstition) としての「労働なき世界」である。ハイパースティションとは、「それはフィクションの一種であるが、しかし真理へとそれ自身を変容させることを目論んでいるものである。ハイパースティションは、触媒として、拡散した心情を刺激しつつ、それらを一つの歴史形成的な力へと変化させ、それによって未来を現実化させるという形で、作動する」 新反動主義者ニック・ランドやカーティス・ヤーヴィンの想い描くような、近代の啓蒙主義や平等主義へのアンチテーゼとしてポスト民主主義的な現代化された君主制を謳う「暗黒啓蒙」という形での「再魔術化」の時代がそのうち現実味を帯びて訪れる 文明進化の極限的な収束点は実は複数的であり歴史は「多元的な終焉」を迎えるのだろうか? 文明の変革を予測することは勿論容易ではなく、仮に容易であればそれはそもそも変革ではないだろう。 加速主義の基本テーゼ」は「近代性はネガティヴ・フィードバック・プロセスではなくポジティヴ・フィードバック・プロセスにより支配される」というものである 「知の爆発」も、優れた機械が自分で自分のシステムデザインを素早く作り出しそれにより自己改良された機械がさらに優れたシステムデザインをさらに素早く作り出す、という自己改良の「ポジティヴ・フィードバック・ループ」の暴走反応の末に起きる「特異点」とされる。ある種の原子炉のようにフィードバック・プロセスを合理的に制御することでそれを利用することができるがその場合「特異点」には至らない。これは制御機構を課す左派加速主義にとって「特異点とは何か」という問題を提起 加速主義にとりわけ特徴的なのは「近代を近代の徹底により超克する」という点である。そしてこの「近代の徹底」の意味するところが、近代性を支配する「ポジティヴ・フィードバック」による際限なき加速であり、近代はそれにより特異点へと到達する "The Dark Enlightenment" の書き出しにおいては「Enlightenment は近代性の“本当の名前”の主要な候補である」と述べ、さらに「本当の名前」の他の候補としてルネッサンスと産業革命を挙げている。何の変哲もない主張に見えるが、その直前で「Enlightenment は状態であるだけでなくイベントでありプロセスである」と述べており、そこには「プロセスの加速」という加速主義的な論点が暗に内包
数学の「公理化」とそれによる数学の「標準化」は伝統数学の脱魔術化であり、「言語論的転回」や「分析哲学の発生」は伝統哲学の脱魔術化であると考えられる。「再帰的近代化」の概念は特に「自己適用の反復」という意味での「再帰」を意味したものではないが、「再帰的近代化」の「再帰」をそのように拡大解釈して、近代はその不可逆なポジティヴ・フィードバック・プロセスにより、第一の近代から第二の近代、第二の近代からさらに第三の近代、さらにその先へと「再帰的近代化による際限なきアップデート」を受けると考えるのであれば、このような「再帰的近代化」の概念はポジティヴ・フィードバックにより特徴付けられるランドの近代性概念と親和的なもの 「近代の左傾化」の傾向をゲーデルは科学の発展の中にも見出す。そしてゲーデルは、特に物理学においてこの「左傾化」がピークに達し、世界の「客観化可能な状態に関する知識の可能性」が大部分否定され、我々は実験結果の「予測」のみで満足しなければならなくなり、そして「これは本当に通常の意味での全ての理論科学の終焉である」と留保なく述べる
「再帰的な反復可能性」という特徴は、加速主義における際限なき「ポジティヴ・フィードバック・プロセス」としての近代化観にも共有されている。近代化を捉える為の概念装置は先にも述べたように多数存在するが、その中でこのような「再帰的な反復可能性」が実装された思想は少なく、両者の概念の顕著な特徴となっている。カッシーラーの「近代性の反復」が構造主義的な抽象化の反復であるのに対して 再魔術化」は脱魔術化と同様に過去と現在を分析理解するための概念装置であるだけでなく、バーマンは特にそれを「近代化」により喪失された「有機的全体」としての「意味」の回復のための未来的なプロジェクトとして提示する。近代化論において用いられる純粋に「記述的」な概念群と異なり、再魔術化の概念は未来の姿に関する「規範的」な側面を持っているのである。同じことは加速主義、暗黒啓蒙や新反動主義にも共通して言える。つまり「近代性のポジティヴ・フィードバック」という、過去から現在に至る近代化プロセスの記述的な分析理解を与えながら、そのプロセスの徹底という「規範」を基礎 加速主義の論理は「Xの徹底によりXは特異点に至りその内部から解体される」という構造を持っている。さらに言えば「それによりXというシステムの「 外部」 が明らかになる」、そして「その「 外部」 への脱出が可能になる」というような論理展開をする。システムの「外部」という「出口」への「脱出」というモチーフは加速主義や暗黒啓蒙に関する議論の中で 後期クイーン問題は「推理小説作品において探偵により論理的に推理された犯人が真の犯人であるか作品内部の探偵には決定できない」という問題である ボードリヤール『消費社会の神話と構造』。今から半世紀近くも前に書かれた本だ。けれど内容は今でも全く古びていない、と私は思う。この半世紀で状況は全く変わらず、むしろ悪化しつつあるとさえ言える、と私は思う。 「コードの要素の組み合わせにもとづくまったくつくりものの「 ネオ・リアリティ」 が、いたるところで現実に取ってかわっている 実物の特徴や要素を組み合わせてひとつのモデルが「 製造」 され、現実のさまざまな側面を組み合わせて事件や構造や状況の予測が行われ、この予測から現実の世界に働きかけるための戦術が決定される。そこでは現実は消え失せて、メディア自身によって形を与えられたモデルがもっているネオ・リアリティが優位に立つ 要するに最初から普遍的で不変的な真実などは、いつの時代のどこであっても、存在したことはなかったということだ。以降時代は急展開を見せ、今ではそれはポスト・トゥルースと呼ばれている。「モダンが記号の支配下に何を置こうとも、ハイパー化するポスト・モダンはすべての記号をウイルスによって上書きする」と彼は言っている。「そのとき文化は社会において、ほんの一部分を担う自動機械となり、自律性を失い、創造することをやめ、そうして記号論は単なるウイルス・エンジニアリングへと転落するだろう ウイルス性のハイパースティションが真実を作る。インターネット・ミームがオルタナティヴ・ファクトを作る。ファクト化したものは以後そうでないものとはみなされず、以後それは真実として現実化 「ロコのバジリスク」という考え方があり、そこでは未来に存在する超越的な知性体が「自らの存在を成立させるために過去の人類に呼びかけている」とされる。未来はすでに決定されており、未来はすでに決定されているがために、過去の存在である現在の人類の存在が可能になる ―― ロコのバジリスクはそうした想像を喚起する。人類は未来の超越知性体によって存在の可能性を担保されており、人類は自らの存在可能性を確保するために、未来の超越知性体の成立に向けて、その技術文明を「加速」させている
暗黒啓蒙〔Dark Enlightenment〕」とは、ハイデガー的な〈哲学の終わり〉を、破滅的な知の爆発によってその瀬戸際まで推し進めようとする試みである。『易経』において大凶から大吉への転換が、否(不運) の卦に続く泰(安泰) の卦で表されるように、この爆発は西洋に自分自身を更新するよう促す ディスオリエンテーション〔disorientation〕 ―― すなわち、方向性〔direction〕 の喪失はもちろん、 西洋 との関連において位置付けられてきた 東洋 の喪失の瞬間なのだ。ファシズムや 外国人排斥 といった不幸な意識は、方向付け〔to orient〕 する能力の欠如から生じる。つまり、安直なアイデンティティ政治や、技術を審美化する政治をその応えとして提示するので ディスオリエンテーションとは、時空的な制約を超えた蓄積を可能にする今日的な資本主義にとっては、望ましく、かつ必然的な脱領土化であると捉えることもできるだろ シュペングラーは一九三三年の著書『決断の時 ―― ドイツと世界史的展開』において、戦争機械こそ、当時の地政学的な危機への唯一可能な対応であったと叙述する。 新反動主義運動が、自由の称揚のもとに「啓蒙」を嫌悪し、民主主義社会からの脱却を志向するのは、彼らの次の理解による。西洋社会は、本来であれば個人の自由を大幅に制限するはずの民主主義や平等といった啓蒙主義的な概念を受け入れてきたことによって、自らの弱体化に寄与してしまった。その結果が、九・一一以降後を絶たない西洋にたいする攻撃の多発であり、弱体化のトラウマを経た西洋社会では今、「啓蒙の後に続く」(キッシンジャー)新たな哲学が、あるいはポスト民主主義的な社会への移行を可能にする新たな政治理論が必要とされている 西洋近代の「啓蒙」を、さらにいえばそれが生み出した民主主義や平等という「神話」を批判する。ヴォルテールがキリスト教会を批判したのと同じ身振りで、彼らは「 政治的正しさ」から成り立つ民主主義的な言論空間を「大聖堂カテドラル」と形容し揶揄する ロンドンのギャラリー、アーバイト(arebyte) では、"Nøtel" と題されたインスタレーションが開催された。一〇〇人ほど収容できそうな会場の中央には「」マークの形をしたオブジェとスペースが設営され、そのマークの中央部分には数台の液晶モニターとゲーム端末のコントローラーが設置されていた。鑑賞者はそのコントローラーを使って作中のドローンを操作し、近未来に設立されたノーテルという名の架空のグローバル・ホテル・チェーンのロンドン支店内部を探索するという体験型のインスタレーション作品
加速主義派政治宣言」などで主張するように、この人物像は「抽象化・複雑性・グローバル性・技術からなる近代性にしがらみなく向き合う」、加速主義政治の構成員像と重なるものだろう。彼らの加速主義において、旧来の左派政治の主体となるような「ローカリズム・直接行動・ひたむきな水平主義」は、このような人物像が先導する加速主義の達成を阻害する素朴政治(フォーク・ポリティクス) 的であるとして批判の対象